六甲山の歴史・文化

1 明治以前の六甲山地

<古代>から<平安時代>
瀬戸内海は大陸文化伝来の交通路だった。
急峻な六甲山地は古くから山岳修行の霊地だったが、伝来した仏教とも結びつき、山岳寺院が建てられていった。
奈良時代以前から行場だった摩耶山や再度山に、平安初期に唐から大輪田泊に帰った空海が天上寺や大龍寺を建てたという伝説がある。

<鎌倉時代>から<戦国時代>
古くから寺院や城砦の資材を供給した六甲山麓は、中世にはたたびたび戦に巻き込まれた。南北朝時代には元弘3年(1333年)の摩耶山合戦や建武3年(1336年〉の湊川の戦い、室町後期には応仁の乱にまつわる文明元年(1469年)の兵庫焼き討ち、戦国時代の天正8年(1580年)の花隈合戦があった。
その間に多々部城や滝山城、越水城や鷹尾城、松岡城や御影城、兵庫城が築かれた。戦いやその後の復興の度に、樹木の伐採や土地の改変、放火や石材採取が行われた。豊臣秀吉の大阪城の時の石切りの跡や搬出途中で放棄された巨大な石材が、今も東六甲にたくさん残っている。六甲の荒廃はこのような中世以来の人為のせいだとする説もある。

<江戸時代>
近世になると、山麓の人々が山中の谷奥に溜め池を築き、牛の飼料の草や屋根に葺く萱、燃料の薪や土壁などのさまざまな生活の資材を求めて六甲山地に入った。
山中の急な谷川の水力は、早くから水車産業を育んだ。水車は江戸時代の初めから菜種油しぼりに使われ、やがて製粉や精米に利用されて、素麺や灘の生一本の生産を発展させた。断層崖に露出していた花崗岩は上質の石材で、積み出し港の地名から御影石の名で広く知られる物産となった。
断層に沿って湧き出す温泉も有馬や平野で古くから利用されてきた。
人の入山によって引き起こされる山火事も六甲名物といわれるほどで、しばしば広い山林を焼失させた。このようにして荒廃した山々は大雨のたびに土砂を流出させ、山際には流れ出した土砂が たい積して扇状地を作り、川口には砂州が形成されていった。
幕末・開港のころに描かれた神戸の背山は、樹木もまばらな荒れ果てた姿である。
明治時代、神戸に入港した船の上から眺めると六甲の荒れた山頂部の照り返しが、雪が積もっているように見えたとも言われている。また、再度山の北方に砂漠と見まがう荒れ地があったなどというのも、このような過剰な山地利用の歴史の結果だったわけである。

縄文~弥生時代の六甲山(平内安彦・画)

 

 

戦国時代(中世)の六甲山(平内安彦・画)

 

  

 

江戸時代の六甲山(平内安彦・画)

 

 

神戸港開港当時の六甲山(イラストレイテッド・ロンドン・ニュース/神戸市立博物館蔵)

 

 

2 明治時代

<居留外国人による六甲山上開発>
慶応3年(1867年)12月に神戸が開港し、東は東遊園地の西の筋から西は鯉川筋まで、北は三宮神社の南の筋「西国街道」に囲まれた区域に外国人居留地が設けられ、多くの欧米人が居住した。
これらの欧米人はその後の神戸の発展に大きな影響を与えた。

英国出身のA.H.グルームは、グラバー商会の出張員として明治元年(1868年)に来神して宮崎直と結婚、居留地で茶の貿易を営んだ。陽気で世話好きだった彼は居留外国人社会の中心人物の一人だった。
明治32年〈1899年)に居留地が返還される以前の明治28年(1895年)3月に長男名義で六甲山上の都賀野村外3ケ村の所有地を納涼遊園場敷地として賃貸する契約を結んだ。そして6月には三国池池畔に山荘を建てて六甲山をレクリ工-ションの場として利用することの先鞭をつけた。
その後も彼の影響によって山上の山荘は数を増していった。

明治38年(1905年)に阪神電車が開通して交通が便利になり、山上の利用がすすみ、明治43年(1910年)7月の朝日新聞によると日本人12戸、イギリス人28戸、フランス人2戸、ドイツ人9戸、アメリカ人4戸、ベルギー人1戸の計56軒の山荘があった。
当時は登山道も十分ではなかったので、六甲山上に登るために彼らは私財を投じて約1.8m幅の登山道を整備した。
明治34年(1901年)には4ホールのゴルフ場を開拓したが、このゴルフ場が明治36年 〈1903年)までに9ホールに拡張整備されて、わが国最初の公式ゴルフ場として認定された。現在の「神戸ゴルフ倶楽部」である。

当時山上への交通手段としては特製の駕籠(かご)や馬が利用されていた。当初、駕籠は五毛と東海道線住吉駅から出発していたが、その後阪神電車の開通によって新在家駅からは駕籠、大石駅からは駕籠と馬が出るようになり、大正9年(1920年)7月に開通した阪急電車の六甲駅では週末になると幾十という駕籠が客待ちしていたといわれている。これらの駕籠や馬の利用は昭和初期まで続いたという。

明治36年の観艦式後、つくられた錨山

 

 

現在の錨山

 

 

<レクリエーションとしての登山>
積雪や濃霧の悪天候のために冬季閉鎖されるゴルフ場のシーズンオフを利用したレクリエーションとして登山活動が盛んに行なわれるようになった。

登山活動はH.E.ドーントやJ.P.ワーレンなどによって明治37年(1904年)頃に設立された登山団体Ancient Order of  Mountain Goats(The Mountain Goats of Kobeなどと改称、以下MGKと表記する)が中心となって、おもに週末を利用しておこなわれた。その機関紙「lNAKA」から、その活動の様子が分かる。六甲各地に残るアゴニー坂やアイスロードなど欧風の地名はその当時の名残りである。
このように居留外国人や彼らと交流のあった日本人は、山上を利用して「きのこ狩り」「アイススケート」東遊園地から摩耶山へのクロスカンツリーなど様々なレクリエーションを楽しんでいた。

一方、グルームは私費を投じて植林や登山道の整備を行ない、兵庫県の服部知事などに六甲山地の砂防や植林の必要を説いていたといわれている。
グルームは、六甲山村長とも呼ばれ、明治45年(1912年)には山上に彼の功績をたたえた「六甲山開祖之碑」が除幕された。この顕彰碑は、昭和17年(1942年)の第二次大戦中に外国人のものだというだけの理由で破壊された。今は、昭和30年(1955年)に再建された「六甲山の碑」とグルームの胸像があり、毎夏、多数の市民が参加して六甲山の夏山の安全を願う「グルーム祭」が行なわれている。

新池でのスケート

 

 

 

スキーを楽しむ人々(昭和初期)スキーを楽しむ人々(昭和初期)

 

 

 

 

3 大正から昭和

<観光開発>
阪神電鉄の開通後、明治末頃には登山者の便宜をはかるためと阪神電鉄社員のレクリ工-ションにも使用するために「阪神クラブ」が六甲山上にできた。
大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発して帰国する在神欧米人が増加するとともに富裕層の日本人の別荘が増加し、当時電気供給事業も行なっていた阪神電鉄によって山上にも電灯が灯されるようになった。

大正14年(1925年)に摩耶ケーブルが営業を開始したが、昭和2年(1927年)に、有野村から阪神電車が約250haの土地を買収したことが本格的な六甲山の観光開発の契機となった。
昭和3年(1928年)には裏六甲ドライブウェイが開通し、有馬から山上へのバスが運行を開始した。昭和4年(1929年)に表六甲ドライブウェイが開通、阪急六甲から山上へのバス運行をはじめた。
昭和5年(1930年)には神戸市に失業救済と観光施設充実のために裏山開発調査委員会が設置され、背山道路の拡充を主とする開発計画がはじまった。

また、道路網の整備とともに昭和3年(1928年)に諏訪山動物園と諏訪山公園、昭和7年(1932年)鵯鳥越遊園地、翌8年(1933年)鉢伏山、昭和11年(1936年)再度公園と公園計画が進められ、かつて生活資材を調達する場であった六甲山は観光レクリ工-ションの対象に変わっていった。

さらに昭和6年(1931年)六甲ロープウェーが開通。翌年六甲ケーブル開通。
昭和7年(1932年)山上回遊道路完成。昭和9年(1934年)東六甲縦走道路開通、六甲オリエンタルホテル開業。西六甲では昭和10年(1935年)に再度山ドライブウェイが開通し、同12年(1937年)に市バス運行開始と次々に山上の道路網が完成した。登山交通の整備とともに昭和4年(1929年)には現在の六甲山ホテルが営業を開始し、昭和8年(1933年)六甲高山植物園開園、昭和11年(1936年)凌雲荘開業など次々と観光施設が整っていった。

しかし、昭和13年(1938年)の阪神大水害による被害は甚大で道路網は寸断され、ケーブルも大きな被害を受けた。昭和初期の道路開設が被害拡大と無縁ではなかったといわれている。第二次大戦中の昭和18年(1943年)、軍用のために小部峠から摩耶山への西六甲縦走道路(明石神戸宝塚線の一部)が完成し、ほぼ今日の道路網ができあがった。
しかし、昭和19年(1944年)に入ると戦局が厳しくなり、摩耶ケーブルや六甲ロープウェーの撤去がはじまるなど六甲山から観光の灯は消えていった。

奥摩耶ドライブウェイ(昭和3年頃)

 

 

 

六甲ドライブウェイを走る展望用オープンカー(昭和7年)

 

 

 

六甲ロープウェイの開通(昭和6年)

 

 

 

六甲ケーブル(昭和7年)

 

 

<戦後復興>
第二次世界大戦によって神戸市街地は焦土と化し、再度公国や神戸ゴルフ倶楽部なども進駐軍の管理下におかれた。
しかし、はやくも昭和22年(1947年)にはテント村が再開され、翌23年には六甲観光交通委員会が結成されている。
昭和27年(1952年)になると新地スケート場や六甲山牧場が開設され、神戸ゴルフ倶楽部が再開し、昭和30年(1955年)には奥摩耶ロープウ工-が開業するなど次第に六甲山に観光の灯が再び点りはじめた。

そんな状況の中で六甲国立公園指定促進連盟が働きかけていた努力が実り、昭和31年(1956年)5月10日、六甲山地区として瀬戸内海国立公園の一部に編入された。これにより六甲山の自然の保全と適正な利用が自然公園法のもとですすめられることになった。
その後も回る十国展望台、凌雲台周辺の整備、芦有道路、六甲山人工スキー場、六甲スカイヴィラ、神戸摩耶ロッジ、六甲有馬ロープウェー、六甲山自然保護センター、オルゴール館などなど時代の移り変わりとともに様々な観光施設が誕生している。

六甲ケーブル山上駅(昭和36年)

 

 

表六甲ドライブウェイではエンジンを冷やす車が目立っている(昭和38年6月)

 

 

再度公園でボートを楽しむ人々

 

 

山上リゾート施設(平成元年)

 

 

まやケーブル

 

 

 

まやロープウェイ

 

 

 

摩耶山掬星台園地のジェットコースター(昭和30年)

 

 

 

 

4 砂防植林のはじまり

 神戸港開港と居留地の設置により、近代都市として歩みはじめた神戸の街の人口は増加の一途をたどり、開港当時2万数千人と推定された人口は市制施行の明治22年(1889年)には13万4千人余と20年間で約6倍に急増した。急激な人口増加によって井戸水を利用していた生活用水の水質の悪化がすすみ、明治10年代になると毎夏コレラ、赤痢などの伝染病が流行して多数の市民が病になった。
このような衛生環境を改善するために上水道の整備が必要となり、明治26年(1893年)になって公営水道が敷設されることが決まった。そしてその水源の-つとして明治33年(1900年)に生田川上流に布引貯水池が完成した。

しかし、貯水池の集水域である生田川上流域の山地は激しく荒廃しており、大雨のたびに貯水池に泥流が流入する状況だった。貯水池の上流には砂防堰堤や締め切り堤が設けられて泥流は放流するようにはなっていたが、貯水池へ流入する土砂を防ぐために泥流発生の監視は怠れず、本格的な砂防工事の必要に迫られていた。
貯水池への土砂の流入を防止するために水源域での砂防に植林が必要なことは認識されていた。しかし貯水池の建股計画には組み込まれていなかったので、貯水池の水源を保全するための砂防植林を急ぐ必要に迫られた。


空から見た六甲山系 (資料:六甲砂防事務所)


明治20年の参謀本部陸軍部測量局の地形図から再現した六甲の荒廃のようす(資料:松下まり子)

 

5 再度山での植林事業のはじまり

 明治新政府成立から約30年が経ち、明治29年(1896年)に河川法、明治30年(1897年)には森林法、砂防法と国土保全に必要な法整備がすすみ、明治22年(1889年)に市制を施行した神戸市の上水道の水源域を保全するために砂防植林を実施する環境が整ってきた。

明治32年 (1899年)7月に奈良県で大日本山林会大会が開かれたのを機に勧業委員や市職員が吉野林業の視察を行った。「茲(ここ)に初めて植林の議を起こしたるなり」と大日本山林会報第287号に記されている。
神戸市は、当時気鋭の造林学者であった東京帝国大学農科大学教授の本多静六を水源域の視察に招き、同年9月1日に商業会議所に500名を集めて水源涵養に関する講話を行ない、これによって造林の必要なことがよく知られるようになった。
近畿地方では滋賀県の田上山で早くから砂防工事が行なわれていた。明治35年(1902年)2月に神戸市職員がこの田上山の砂防工事を視察し、明治34年度の予算から捻出した経費で荒廃が激しい再度山修法ヶ原において明治35年2月18日から3月18日にかけて約0.68haの試験植栽を実施した。この試験植栽では、積苗工約1,900mと谷止工5カ所を施工してクロマツとヤシャブシをそれぞれ10,000本植栽し、良好な結果を得た。

一方、明治33年(1900年)10月、兵庫県に生田川上流域の砂防工事の施工を申請した。申請していたこの地域が明治36年(1903年)に砂防指定地となり、国庫補助を受けて同年度から13ケ年計画として布引貯水池の水源域1,100haを施工区域として実施されることになった。この
植林ではha当り10,000本のマツ、ヤシャブシなどが植えられた。
一方、神戸市域で将来的に森林として造林の必要な場所の調査は、県から派遣された林業巡回教師の林五八と測量手伊藤種次によって、明治34年(1901年)4月に調査に着手し、明治35年(1902年)3月に終了した。
市会は明治35年度予算で初めて造林費を可決して神戸区所有の山林(現在は北区内の神戸市有林)45haを対象に造林を行うこととして区会に土地の使用を求めた。区会は明治35年度から20年間は無償で、55年度以降は収益の7割を市、3割を区の所得とする条件で土地の使用を認めた。
これにより愛媛県新居郡から11人の造林経験のある作業員が到着して、明治35年(1902年)11月13日に当時の坪野神戸市長の激励を受けて植林(地桁え)作業に着手した。これが荒廃した六甲山に緑を回復する計画的大規模な植林のはじまりとされている。

砂防植林が始まった明治36年の再度山

 

 

 

明治36年、植林のために山に入る人々

 

 

 

施工から一年後の再度山

 

 

 

明治41年、施行から5年後の再度山

 

 

 

大正2年、施工から10年後の再度山

 

 

 

現在の再度山

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